インタビュー

Vol.4

日本人が漢字とどう付き合っていくかの国民的な議論があるべきだと思います。

月本雅幸

日本語の研究成果を活かしてもらうための情報提供を


――基本となるデータベースをご提供いただければ、研究のご要望に応じたものを構築できる気がします。当社もメーカーとして、ご協力できることが何かあるのではないかと思いますが。

実際なかなかそういうものができない理由はいくつかありまして、ひとつには第一線の研究者たちが「そういうものがあればいいなぁ」と思いながら、そのために自分の労力を割くのは大変だ、という気持ちを持っている。それをやるんだったら、こちらをやらなければならない、こっちのほうが先決だ、っていうことが私自身もございます。

それから二番目には、そういうデータベースの構築や商品化というものが、学問研究の世界のものにとっては、必ずしも、自分の業績として認められにくいっていうところがあります。「この本を書いた人ですよ」というと「ああそうですか!」となりますけど、「このシステムを作った人ですよ」と言うと「はあ、そうなんですか?」ということになりかねないんですね。それに自分の人生の何分の一かを投ずる勇気のある研究者がどれだけいるか。特に若い人ですね。それは必ずしも多くないだろうと思います。

それから、なかなか難しいことなんですけれども、その勇気があったとして、ある程度事情をおわかりの人は、栄枯盛衰の激しいIT関係の企業と製品のなかで、自分のやったことが、どれだけ今後とも引き続き認知されていくか、という不安をかえって持つんじゃないか。そのあたりのことが複雑に絡み合って、なかなかできにくい、ということがあるかもしれないと思うんですね。

ただ、こういうことはどこかでやっていかなくてはならないですね。十年以上前に、あるパソコンの雑誌で見たんですけれど、当時は、テキストの読み上げソフトというものが出始めたころで、その開発をした会社の社長にインタビューをしたわずか1ページくらいの記事だったんですが。
「このソフトを開発されたときに、一番苦労された点は何ですか?」という質問に、即座に「読み上げの結果が、自然に聞こえるためには、日本語のアクセントの法則に即して発音させる必要があるのだが、そのアクセントの規則を見出すのに2年かかった」ということが書かれていたんです。

私は呆然といたしました。どうしてかというと、共通語のアクセントの規則というものは、遥か昔に完全に解明されているわけです。そんなものはどこでも手に入る本を見ればすぐに書いてあって、最先端の研究ではありません。たとえばNHKの『日本語発音アクセント辞典』なんかがあったわけです。その会社は、それを見てなかったようで、そう考えると、そのソフト会社の方は2年間という時間を無駄にしたわけです。日本語研究の最前線、あるいは昔の最前線、そういうものとの連携が、ソフトやデータベースの開発や構築に関して、非常に重要なんだということですね。

ですから、日本語の研究に携わるわれわれが、そういうところにも研究成果を見ていただけるように、もう少し間口を広げて成果を示す必要があるのではないかと思います。
必要としている人にピンポイントで提供することも必要ですけれども、誰が必要としているかわからない点がありますので、そういう人にわかってもらえるように、もうちょっと一般的に示す必要があるんじゃないかって思うんですね。

今は電子的に検索ができますから、「日本語のアクセント」と入れて検索すれば、かなりの知識がサイト上で得られますから、さっきのようなことはもうないと思います。けれども、思わぬ落とし穴があるかもしれませんので、日本語の研究に携わるものは、そういうところにさまざまな情報知識を提供していく義務もあるんじゃないかと思いますね。

国策としての日本語研究が必要


――日本語研究が果たす役割はまだまだ多いということですね。

東京の立川にある国立国語研究所で、さまざまなプロジェクトが進んでいるんですけれども、日本語研究ということに関していうと、私は国家的な資金の投入があまりに少なすぎると思っております。それを研究者の努力やハードやソフトのメーカーの方々に依存しているというのは、世界戦略的にも間違っているんじゃないかと思うんですね。

日本語に関する、日本語が使える、そういうソフトというのは日本人しか使わないだろうから日本のメーカーが作るんだ、日本人が作るんだ、といって済ませることができているうちはそれでいいんですけれど、外国で大規模な資本を投下して、今までなかったような使い勝手のいいものを作ったら、今まであったものは一網打尽にされてしまう。そういうことだってありうるんじゃないかと思うんですね。そう考えますと、もうちょっと日本語研究や日本語関係のソフトウェア、ハードウェア開発や製作というものに国家的見地からの援助がほしいなぁというふうに思っております。これはまあ、私の研究にどうのこうのではなくて、日本の根本なのではないでしょうか。

なぜこんなことをいうかといいますと、明治以来、日本の国家が、国家的な見地で日本語の辞書を作ったことが一回もないんですね。一国の公用語という規定は、日本の憲法にも法律にもありません。国家的な見地で作るというのはさまざまな問題があり、かえって好ましくないんだ、という考え方もあろうとは思うんですけれども。結局、民間の出版社や辞書編集者たちの創意工夫と努力と犠牲に任せてしまっている、そういうことがあるわけですよね。

山口先生もインタビューのなかでさまざまな苦労を語っていらっしゃいましたけれど、そういうご苦労が個人のものとして、いわば個人の犠牲の上に立っているいうところですね。それをなんとかできないものかということです。

たとえば、長い間、冊子体の一番きちんとした漢字の辞典というのは大修館書店の『大漢和辞典』だという認識が広くありました。これは日本だけではなく、漢字文化圏はみんなそう思っていたんですね。昔は大修館の『大漢和辞典』の海賊版というものが出回っていたんです。

ところが、現在では『大漢和辞典』というのは1930年代の編纂物ですから、中はもう古くなっています。しかし、それを全面的に改訂するという話はないんですね。 私ども日本語学者であっても、今、漢字や漢語について最新の情報を冊子体のもので見ようと思ったら、中国の『漢語大詞典』というものを見るんです。これは1990年代の出版ですし、もちろん大漢和辞典のいいところも悪いところも見た上であとから作ってますから、ある意味では現代中国の力を象徴するような辞書なんですね。

われわれは日本人で、私自身中国語が得意でもなんでもありませんので、どうしても『大漢和辞典』を見るんですけれども、現在ではそれでは済みません。『大漢和辞典』と『漢語大詞典』を両方見るようにしておりますし、学生にもそのように指示しております。 ですから、そういった意味でも、日本における日本人にとって使いやすい大規模な漢字辞典というものが、データベースを発展させていくなかで、おのずからできあがっていく面もあるんじゃないかと思います。もう紙媒体の辞書というものは、そう簡単にはできませんし、改訂というのも難しい。ですから、そういうものの新たな道を探っていくことも必要なんじゃないかなと思ったりしております。

――『大漢和辞典』も最近の文字を集めた一巻を付け足して出されたりとかはしてますけど、基本的に昔の巻にはほとんど手が入っていない状態ですね。

『大漢和辞典』は、本当に糊とはさみで作った辞書で、それだけにやはり修正すべきものはたくさんあるんですね。

それこそ漢籍のデータベースというのは、大規模にあちこちにあるわけですから、そういうものによって全面的に作り直す、見直すってことが用例だけでもできるんです。論理的にはできるわけです。しかしそれを誰がやるか、どういう体制の下でやるかとなると、これは難しいわけですよね。そうなると、『大漢和辞典』を引くよりは、台湾の中央研究院の漢籍データベースをひいたほうがいいんだという話になってきてるわけなんですね。

そうすると辞書というもののあり方が今後どうあるべきか、つまり用例は簡単に探せるようになったわけで、じゃあ用例が素人にでも探せるようになった時代に、辞書の持つ付加価値はなんであるか、っていうと、いわばそれは正しい語釈とか、解釈、さまざまな判断、そういう点になってくるんだと思いますね。
ですからそういう意味で、辞書のあり方も変化を迫られているというのが私の考えですね。

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