• HOME
  • エッセイ
  • 川西 蘭 Vol.1 ごく短い回想録・漢字とのつきあい(一)
エッセイ

Vol.1

ごく短い回想録・漢字とのつきあい(一)

川西 蘭

2013.10.08

 もう十年以上も前になるだろうか、通信で使用される文字コードの選定問題に首を突っ込んだことがある。文筆業者の職能団体の一員として、研究会に参加したのだ。

 研究会には国語の専門家や漢字の専門家やコンピュータの専門家や通信の専門家や工業規格の専門家などさまざまな分野の専門家がいた。専門家でないのは、私くらいのものだ。

 議論の対象になっていたのは、いわゆる「外字」問題だった。既定の通信コードにない「文字」をどう取り入れるのか、選別の基準をどうするか、異体字の処理をどうおこなうか、などなど検討項目は多岐に渡っていた。

 「文字」と広く規定されていたものの、議論の中心は、「漢字」だった。漢字のほかに話題となったのは、私企業の社章とか通貨記号とか和文の記号(踊り字)で、それらが語られるのも漢字の選別方法で、使用頻度の例として引き合いに出される程度だった。

 当時はまだ、パーソナルコンピュータの性能も低く、通信速度も遅かった。大量のデータを高速に処理し、転送する技術もインフラも整っていなかった。

 そのような状況下では、文字コードに収録する文字数にも制約があって当然と考える人が多かった。制約など必要ない、そのうちに大量のデータを高速に処理し転送することが可能になるから、と考える人も少数だが、いた。

 両者の争いはさほど激しくなかった。私が参加した研究会は、当時の技術水準での実装を前提にしていたので、文字数に制約を設けることは暗黙の了解になっていたからだ。それでも、時々、青天井もありだとしたら、という話の展開になることもあった。

 文字数を制限する場合は、どれを入れてどれを入れないかの基準作りで大変な議論になる。不用意に「漢字」と書いてしまったが、「国字」(日本で作られた文字)もある。

 制限をするしないに関わらず、文字の同定問題が、われわれの前にどすんと横たわる。

 なにを文字とするのか。そして、なにを根拠に文字の同一性を判断するのか。

 なにが文字なのか、を問われても返答に困る。考えたことがないからだ。すでにあるものを学ぶのが、文字だ。文字はすでに(私が生まれる前に)決められている。

 決めたのは誰だろう?

 たとえば、幼児が自分だけに通じる意味があるものとして、波線のような記号を作ったとして、それは、文字と呼べるだろうか?

 もし、その幼児が目にした「ひらがな」を加工して、その波線のような記号を作っていたら、文字であるなしの判定は変わるのだろうか?

 自分だけに通じる記号に公共性がないという理由で文字から排除されるとしたら、小規模な集団だけで通じる記号は、どうなるのだろう? たとえば、浦沢直樹作『20世紀少年』で使われる“ともだち”のマークのような。

 決めたのは誰か、を決定するのは、日本語では難しいだろう。もしかすると、専門家は決定可能だと考えているかもしれない。あくまでこれは私の素人考えである。

 決めたのは誰か、を特定できる言語もある。ジャレド・ダイアモンド著『銃・病原菌・鉄』によれば、チェロキー・インディアンの音節文字は1820年頃アーカンソー州のセコイヤがアルファベットを改良して作り出したそうだ。それまでチェロキー族は独自の言語は有していたにもかかわらず、文字を持っていなかった。

 日本語の文字の起源をたどるのは、チェロキー語ほど容易ではない。中国まで漢字の源流を追わなければならない。いつ、どこで、誰がを特定するのは難しい。亀の甲羅のひび割れから漢字が生まれたなら、一文字一文字の成立時期や場所を特定するのは、不可能だろうし、あまり意味があることとは思えない。

 しかし、どの時点かで文字は文字として定められたはずだ。放置しておけば、幼児の覚書のような記号が増殖し、その中には文字として流通するものも出現し、旧来の文字とも混交し、文字は、言わば、野放し状態になる。

 中国では二世紀には字典が編纂され、字の体系化が始まっている。公準を定める必要がその時にはあったということだろう。大規模な字典は、その後、何回も編纂されている。

 文字を定めるのは権力だ。文字を収集し、分類し、異同を判定し、体系化するには、膨大な人力と資金と時間が必要になる。それを支えられるのは、強大な権力しかない。

 覇権を握る者が文字(の体系)を制する。文字を握らずに、覇権を制することはできない。

 文字コードの選定でなぜ、掴み合い寸前の白熱した議論になるのか、無知な私には理解できなかったが、覇権を争っている、と考えれば、納得がいく。むしろ、お行儀が良すぎるくらいだ。

 研究会は途中で辞めてしまったが、漢字や文字への興味は持続した。それまで無自覚に使っていた文字や漢字に対して少しだけ自覚的になった。同じ頃、私は仏教を知った。漢字への親近度はそれによってさらに増すことになる。



川西 蘭(かわにし らん)

早稲田大学(政治経済学部)在学中『春一番が吹くまで』で作家デビュー。以後、映画化された『パイレーツによろしく』など話題作多数発表。近作に、自転車ロードレースに熱中する少年たちを描いた『セカンドウィンド 』シリーズがあり、第三部まで既刊。来春、第四部(最終巻)を刊行予定。『坊主のぼやき』など仏教関係の著作もある。浄土真宗本願寺派僧侶。東北芸術工科大学文芸学科教授。

▲PAGE TOP