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エッセイ

Vol.1

日本語はやさしい(一)

山口 明穗

2013.01.15

15年も昔の事になるが、スイスのジュネーブに数日滞在した。一日の暇が出来たので、家内と二人、鉄路で日帰りの出来るシヨン城に出かけることにした。

汽車に乗れば、欧州独特の列車の雰囲気があり、何とも愉しい思いである。駅を出た列車は、緩やかな勾配を登っていく。登るにつれて下方にレマン湖が見えてきた。斜面は赤に黄色に色づいている。葡萄の葉の紅葉がこんなに美しいのを見るのは初めてで、美しい景色に感動して、最高の気分に浸っていた。

途中から一人の男性が私の隣に座った。暫くして「日本人の人ですか」と聞かれた。こちらも「お国はどちらです?」と聞いた。はっきり覚えていないが、アラブのどこかの地方の人であったように思う。

何でも、当地の大学でアラブ関係の言葉を教えていたが、定年になったので、今は日本語を一人で勉強しており、一年になる。日本語の本は少なく、図書館で勉強しているということであった。

彼の日本語は、短い期間の勉強でここまで上達するのか、と驚く程であった。 いろいろ話しているうち、自分の日本語が気になるらしく、「私の日本語、変ではないですか」と聞いてきた。こちらも何のお世辞もなく、「少しも変ではありませんよ。非常にお上手ですよ」と言った。家内も「とても感心しました」と。彼は嬉しそうにみえた。さらに自信を持ったことであろう。

彼とは、シヨン城の最寄り駅で一緒に降り、バスの切符の買い方から、どのバスに乗るのかまで教えてもらい別れた。別れしなに手帖の一枚を切り取り、自分の名前はサラディン・マワスリ(SALADIN MAWSLI)、漢字では「砂羅人 回素理」と書いてくれた。

その後迷うことなく、シヨン城に行き着くことが出来、湖畔の古城見学をゆったりと楽しめたのは、その人に出会えたお陰と言ってよい。

一年という短い期間の学習で、しかも教えてくれる人もない一人だけの勉強で、あそこまでうまくしゃべることが出来るようになるのであろうか。帰国後この体験談を周りの人に話してみると、誰もが、驚きを通り越して不思議と言う。

その人の素質が極端に優れているのであろうか。アラビア語を教えていたことに関連があるのであろうか。今でも改めて考えてしまう。彼にとって、日本語は習得するハードルは高くなかった、ということだけは事実であるといってよい。

そもそも、空いている車両で隣に来たのは、私たちを日本人と見てのことであろう。今ほどでないにしても、名だたる観光地、日本人の珍しくないあの路線で、日本人の隣の座席に座り、日本語の腕を磨いたことでもあろう。

日本語はやさしい、その一端を現実に見た思いである。

なお、サラディンさんに関しては、日本に帰国後、日本語の辞書をお送りした。その礼状を頂いたが、そこに書かれた日本語は、意味の通じにくい日本語であった。あれだけの日本語をしゃべれた人が、書くとどうして、このような日本語になるのであろうか。話し言葉と書き言葉、これほどに違うのは何故なのか、考え込んでしまった。



山口 明穗(やまぐち あきほ)

国語学者、東京大学文学部名誉教授。
1935年、神奈川県生まれ。東京大学文学部卒、1963年東大人文科学研究科国語国文学専修博士課程中退、愛知教育大学専任講師、1967年助教授、1968年白百合女子大学助教授、1975年教授、1976年東大文学部助教授、1985年教授、1996年定年退官、名誉教授、中央大学文学部教授、2006年定年退任。
著書に、『中世国語における文語の研究』明治書院(1976)、『国語の論理―古代語から近代語へ』東京大学出版会(1989)、『日本語を考える―移りかわる言葉の機構』東京大学出版会(2000)、『日本語の論理―言葉に現れる思想』大修館書店(2004)など。そのほか『岩波漢語辞典』『王朝文化辞典』などをはじめとする数々の辞書・辞典の編纂に携わり、GT書体プロジェクトでは日本語漢字監修を務めた。
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